次の障壁は父だった。積極的に言いたくはないが、私の父は第1回ラグビーワールドカップ日本代表監督である。そして会社の上役でもある。その人間をどう説得するか、思い切り苦悩した。きっと、いや間違いなく、ただでさえあの恐ろしい顔、さらに苦みをつぶしたようにイヤ〜な顔をして「そんなことやめとけ。」と言うに決まっているのである。
「根回し」という言葉、これは造園の言葉である。樹木を他の場所に植え替える際に、枯れないように事前に根を掘って細かい根を出させる技法のことである。
私に芽生えた芽が枯れないように、根回しをはじめた。
まず外堀から埋めなければならない。とは言え、障壁は多い。芝生のグラウンドを使わせていただかねばならないので、まずはパナソニック ワイルドナイツのOKをもらわないことには始まらない。ワイルドナイツを説得するにも、まず誰に話しを持って行くのがいいのか、そんなところから悩まなければならない。
それでもなんとかワイルドナイツの了承を得て、次の外堀、自分の会社の社長に会うため大阪に飛び、自社の社会貢献事業として承認を得た。
そして次は父の番だ。
すぐには切り出せなかった。
数日が経過した。
意を決し、ようやく話しをすることができた。
「いい映画作ってくれ!」
思いもしない反応だった。思い当たるのは社長だった。多分社長が事前に根回しをしてくれたのだと思う。確かめたりもしてないが、何となくそう感じる。とはいえ実は、普段なんでも反対したり、難癖つける父であるが、実は今までの私の人生において、特別大きな岐路では案外寛大で自由にやらせてくれた。中学受験、高校後の進路、就職、転職、そして今回の映画・・・まぁそれだけだけれど(笑)
そしてグラス☆ホッパー製作実行委員会を立ち上げた。今までのまち映画では、この委員会が10名、20名といたようだが、数は要らないと思っていた。人数が多くなるほど何事も決まらなくなると思ったからだ。そして決めたメンバーは私と藤橋氏と、まち映画で何度もプロデューサーを務めた太田市の岡田氏、そして大泉町で各団体でご一緒している秩父氏、合わせてたった4人。自分以外、一騎当千のつわものばかり、心強いメンバーに恵まれた。なにより私の苦手な部分を強力にカバーしてくれる、そんな方々を選んだ。
ワイルドナイツの本拠地が太田市にあるため、太田市と大泉町の「まち映画」とし、そして行政や教育委員会からの後援、日本ラグビーフットボール協会、群馬県ラグビー協会、その他諸団体からの後援を得て2012年9月初旬の製作発表となった。
その後、オーディション応募用紙を東毛の小学校中心に配付して、応募を待った。初めて応募があったときは涙が出そうになった。子どもたちが応募用紙に書いているシーンを想像したら、余計に涙が溢れた。
当初順調と思われた応募がなかなか集まらない状況となってきた。毎日何度も郵便受けを確認する日が続いた。締め切り1週間前で50人程、想定の半分も来ない。
なぜ?どうして?
私の苦悩に、スタッフ、友人、そしてメディアのみなさんも協力してくれた、最後の最後まで。私も往生際悪くあがいた。必死の取組みでその後2週間で、最終受付は179名となった。
最終オーディションを通過したのは12名、私の最後のあがきがなければ、そこにいない子も数名いた。そして出番は少ないかもしれないけど役についてもらう子が他10名、計22名。予定よりはるかに多い人数だった。それ以下に絞ることができないほど、素晴らしい子ばかりだった。撮影は4月下旬から・・・でもその19名だけで作る映画ではない。みんなに送ったお礼状にこう書いた。
「映画は約75分、撮影にはその10倍のフィルムを使います。
でももうすでにこの物語は始まっています☆
だからもうみんなグラス☆ホッパーの仲間、グラス☆ホッパーズです☆彡」
結局私の言い訳にすぎない・・・多くの応募者を募り、多くの子に落胆の想いをさせた。それが事実であり、心苦しかった。それをごまかすための言葉・・・そんな風に捉えられても仕方のないことだった。でも子どもたちに今まで経験したことのない、映画のオーディションということに果敢にチャレンジし、通過できなかったということも含めて少しでも人生の糧になってほしい、そう願うだけであった。
1月上旬に初めて脚本をみんなで読んだ。3月までに何度も集まって演技の練習をした。ラグビースクールの門を叩き、ラグビーの練習もさせてもらった。いきなりみんなと同じ練習を2時間、人生でこんなに運動したのは初めて・・・と言った子もいた。3月には合宿も行った。肉体的に、精神的に追いこんで、そこから這い上がれるか、自分の壁を超えられるか、そんな合宿であった。
そして4月6日製作発表、メディアのみなさんの前で堂々としていた。主題歌もお披露目となった。