造園土木一式 企画・設計・施工・管理

コラム

2012年06月のコラム

 朝コンビニで、サンドイッチとあんパンと缶コーヒーを1つずつ買いました。考え事をしていて店員さんがレジ袋に商品を詰める様子は見ていませんでしたが、おつりを受け取り、店を出ました。

食べようと袋の中を見ると、お箸が1膳入っていました。

私がパンをお箸で食べるかもしれないくらい和風に見えたのか、サンドイッチやあんパンはお箸で食べるのが普通な世の中になったのか、それとも手が汚く見えて気を遣ってそうしたのか、それとも店員さんのボケなのか、なんなのか・・・悩める朝でした。

 

 新幹線の席の脇についているのですが、普通みなさん上着を掛けていらっしゃいます。しかしこれ「上着掛け」ではなく「帽子掛け」なんですね。車掌さんが言いました。「座席、網棚、帽子掛けにお忘れ物のないようお降りください。」と。

 帽子掛けに上着を掛けても、それは自由だと思いますが、てっきり「上着掛け」と言うものだと思っていました。これは「帽子掛け」というんだと分かったときに、ふと昔の映像が頭に浮かびました。大正時代の駅の様子、あの頃の日本人ってハットを被っているイメージが浮かびました。もちろん外套も羽織っているでしょうから上着も掛けたのかもしれません。しかし、車内も寒いので外套は着たまま過ごしていたとすれば、帽子しか掛ける必要がなかったのでしょう。そういった名残りで、これは「上着掛け」ではなく「帽子掛け」と言うんだろうと自分で納得しました。

 出張の道中、そんな大正ロマンを感じたのでした。
2012.6.13
 怖くて辛いことも多かったけど楽しかった。そんな寮はもうない。建物はあるが運営されていない。いまどきの子が、というよりいまどきの親がそんなところに入れるわけないので、経営できなくなってしまったのだ。私のいたころも一時期20人を割って閉鎖されるかもしれないという状況になったことがある。たまたま次の年、その次の年と多くの入寮生がいて、今度は逆にもう入れないというところまで増えた。

 部屋は4人部屋。横割りのときもあれば縦割りのときもある。年に数回部屋替えをする。ベッドは造り付けで、机を置くスペースも当然そこに置くように設計されていたが、だれもその通り配置しない。その部屋ごとにオリジナリティを求めて訳の分からない配置をする。部屋長のセンスの見せどころである。カーペットを敷いたりは自由だ。ベッドの手すりから手すりへと洗濯ロープが張り巡らされ、当然洗濯物は干しっぱなし。部屋の戸を開けても洗濯物で奥まで見えない。洗濯物をかき分けて奥に進む。

 洗濯は自分でする。全自動などなく、2層式である。すすぎは水を出して回す。時間を見計らって止めて脱水するのだが、忘れて何時間も水が出しっぱなしなんてことはしょっちゅうだった。後輩はそれをすると怒られるので見守っているのだが、先輩たちのものが問題であった。後輩は先輩の洗濯の水を止めるまではいいが、勝手に脱水などかけると怒られる。次使いたくても先輩が来るまで待つ。先輩は後輩が使っていて本人がそこにいなければ、勝手に空けられる。先輩は次の工程をやってくれるわけはなく、びしょびしょのままそこらへんに放置されている・・・。そうなるともう一回やり直しである。

 もちろん掃除は自分たち、お風呂掃除、食事当番は部屋ごとの当番制。食事は作ってもらえるが配膳や片づけ、食器洗いは食事当番の役目である。しかしただでさえ自由時間が少ないので、自由時間を稼ぐために、時間短縮の技を駆使した食器洗いはすさまじかった。湯呑みは水の入ったシンクに洗剤を入れてガシャガシャとかきまぜてすすいで終わり。箸やその他食器もスポンジでゴシで終わり。ゴシゴシゴシではない。ゴシ。カレーが出るとさすがにゴシでは落ちないので、食事当番の自由時間は相当減った。

 そういえばサッカー部の合宿でカレーが出たときには、食べたあとトイレットペーパーがまわってきた。洗うのが大変だから洗う前に拭き取ろうということだったが、まるでうん○のようで、疲労で食事が遅いやつの食欲はさらに失せた。

 牛肉は年に1度だけだった。寮のクリスマスパーティーのときだけ。このときは学校の女の先生も全員招待してすき焼きをする。食べきらないほど牛肉が山もりになっている。しかし残念なことに、早食い競争が恒例となっていて味わって食べることはできない。その席に調理のうまい女の先生が当たればおいしくも食べられるが、ど素人の男の先生に当たると味付けに失敗して大変な目に合う。そして中1、中2、新高1は余興をしなければならない。すき焼きの後の余興のことが頭いっぱいで心底楽しめないパーティーなのだ。私は中学から入って中1中2と余興をこなしたので、高1ではやらなくてよかったのだが、同じ部屋3人とやることになった。先輩や先生を楽しませるには過激なダンスしかないと思い、創作し、夜な夜な練習した。曲はデビッドボウイとミックジャガーの「dancin‘ in the street」。髪型はポマードやディップでオールバック、サングラスをかけ、上は学校のブレザー、下はサッカーの短パンで登場、そして曲をスタート。しかしあまりの歓声に曲が聞こえない。ボリュームを上げて再度スタート。ブレザーの背中に隠した洗面器を取りだして、どじょうすくいダンス。これはただの序章であった。

 ボーカルの入る直前にその洗面器で、男子の大事な部分を隠して、4人そろって短パンを脱ぐ。短パンの下はノーパン。。。そしてダイナミックかつシンクロナイズされた腰振りダンスにボルテージは最高潮。そして寮始まって以来のお下品ダンスの締め。曲の終わりに合わせて後ろを向く。そしてブレザーの裾をペロンとめくる。4人の半ケツに一文字ずつガムテープで「メ」「リ」「−」「ク」「リ」「ス」「マ」「ス」の文字。
大歓声のなか、脱いだ短パンを拾ってそそくさと退場した。

 次の日学校では会う先生、会う先生、「昨夜は最高だった。」と言われる。男にとって最高のほめ言葉だ、女性から言われればの話しだが。。。

 まだまだ話したいことは山ほどあるが、ほんとうに楽しい寮生活だった。多感な6年間を過ごした寮生活にも最後の日が来る。1月末に最後の期末試験を終えると受験のためみんな実家に戻る。1カ月ほど後に卒業式まで寮には戻らない。

 卒業式前日、3年生たちは久しぶりの、そして最後の寮に戻る。進路が決まってやつ、浪人が決まったやつ、これから国立の受験を控えたやつ。なんとなくテレビの前にみんな集まってきた。本当に最後の夜なのだろうか・・・私は信じられなった。たぶんみんな信じられなかったはずだ。あまりに濃い6年の生活だった。


 その時テレビの中で、光GENJIがローラースケートで「ガラスの10代」を熱唱していたのを今でも鮮明に覚えている。

<了>
2012.6.9
 中1の入学式の日に寮生活が始まる。朝から入学式を終え、午後一で入寮式を終える。まだ新しく寮生になった新入りしかいない。期待に胸ふくらませた中1、高1しか、まだそこにはいない。しかし次の日の始業式に合わせて先輩たちが次々と集まってくる。徐々に緊張が高まる。粗相がないように挨拶だけはしっかりするが、誰もフランクに話しかけてくれる先輩はいない。明日から始まる学校のためか、けだるそうに一瞥をくれるだけである。

 いよいよ寮生活最初のイベント、夕食が近づくと中2から召集がかかる。夕食までの短い間で先輩から厳しいルール、しつけを叩きこまれる。猶予はない。そして夕食に初めて全員と顔を合わせる。張り出された席順に座る。いきなり縦割りの席で、対面は高3だ。自己紹介もない。突然共同生活が始まるのだ。情報はスリッパの色とそこに書かれた学年と名前のみ。中1は他全員を先輩と想えばいいが、高校から入学した新高1(と呼ばれていた)は中学から上がってきた場馴れした旧高1(と呼ばれていた)や中2、中3をも先輩と思って敬語で話している。中1からすると高3はおそろしく大人でまともに話しなどできなかった。
 ルールといってもごく当たり前で正しい躾のようなものがほとんどである。挨拶をする、御飯のよそり方、お茶のつぎ方、食事はひじをついたりしてはいけない、風呂場に入るとき出るときにはみんなのスリッパをそろえる、脱衣場の棚は一番下を使うなどなど。しかし理不尽なものも多々あった。特におかしいと思うのは中1中2は御飯のおかわりしてはいけないというものであった。入って1週間はなんでこんなところ来てしまったのだろう、辞めたいと思って夜な夜な泣いていた。

 同じ学年の人間が粗相をすると、消灯後、その学年全員、先輩の部屋に呼び出される・・・。

 プライベートはカーテンで囲われた作りつけのベッドの中、そしてトイレの個室だけ。その個室も使用中は戸が閉まった状態で、誰が見ても使用中と分かるのだが、ある朝、大をしているとノックされた。

「入ってます。」

さらに大きなノック。

「入ってます!」

ドンドンドンドンッ!

ここまで来ると半泣きである。

しまいには蹴っ飛ばされ鍵が壊れ戸が開く・・・そして

「なんだ入ってたのかよっ!」

中3の先輩だった。

思わず立ち上がって「すみません!」と謝るしかなかった。
その先輩のお気に入りの個室だったのだ・・・。

 そんな恐ろしいところだった。

しかし先輩たちの話しを聞くと、私が入ったころはこれでもかなりマシになっていたようなのだ。

<続く>
2012.6.5
 テレビって僕たちを魅了してくれる玉手箱だった。ほんとになにが入っているのだろうって覗き込みたくなるような。ウルトラマンだったり、プロ野球だったり、8時だよ!全員集合、ひょうきん族だったり、フランダースの犬だったり、トレンディードラマだったり。4年に1度のオリンピックだったり・・・こう並べ立てると、ただの回顧主義の昔は良かった論になってしまいそうだけど、中心にはテレビがあった。

 情報社会となって無数の情報があふれだし、情報をキャッチする機器もテレビ、ラジオだけでなくパソコンや携帯、i-pad。テレビにしてもチャンネルが両手に余る時代から数えきれないほどに増え、放送時間も「砂の嵐」がなくなった。出演者増やさなきゃ番組作れないよなぁ。その内、テレビタレントの数が視聴者の数を上回るのではないかと思う。

 家では毎日、息子と娘がチャンネル争いでケンカをしている・・・。

 私は中学高校の6年間、学校の寮に入っていた。その寮の名前は「清心寮」。私にはどうやらこの「清」と言う字に縁があるらしい。

 中学1年生から高校3年生までが、少ないときで20名、多い時には60名近くが共同生活をしていた。そこにテレビは1台。見ることのできる時間は放課後から19時、それから21時から22時。それだけだった。部活をやっていれば21時からの1時間のみしかチャンスはなかった。だから「おにゃんこクラブ」も見たことがない。チャンネルの主導権は当然最上級生。でもテレビ見てる人はごくわずかだった。それよりなにより楽しい生活があったので、テレビなどおもしろくないものを見る余裕はなかったのだ。門限も19時。18時まで部活やって寮生全員そろって夕食、そしてお風呂、それで駄菓子屋に買い出し行ったらちょうど19時。それでも門限が早すぎるとか全然不満はなかった。まぁ門限が遅くても行くところがない。我々が卒業した後などは塾に通う寮生もいたらしいが、我々のときにはそんな奴はいなかった。中学生は22時消灯、高校生は23時、消灯といっても行儀よく電気のスイッチを消すのではない。宿直の先生がブレーカーを落とす。毎晩停電状態である。勉強したくてもできない環境であった。まぁそんな奴はあまりいなかったけど。。。暖房はあったけど冷房はなく、窓に網戸はない。アルミサッシではなく、鉄・・・。すぐ脇は川が流れ、台風で増水したときには避難勧告が出る寸前だった。周りには田んぼも多かったのでカエルの鳴き声がこだまし、電気の光を目指して我が寮にツマグロヨコバイの大群。4人部屋の誰かがラジカセで好きな音楽をかけているか、しゃべっているか、うるさい。そこで勉強する。広げたノートや教科書にツマグロヨコバイがボトボト落ちてくるとさすがに勉強どころでないので、夏でも窓は閉め切る。汗ばんでノートに腕がひっついてイライラする。夏休みは実家に帰省してエアコンの恩恵を享受できたが、その間閉めっきりの鉄筋コンクリート3階建ては、2学期の始業式前夜、我々が戻ってくると蒸し風呂状態。実家のエアコンでなまけた身体はすぐには順応せず、毎年9月の第1週は超寝不足、体重も激減する始末。逆に冬は窓を閉めていても隙間風がビュービュー入り込む。廊下の窓も一度開けると重たくて閉めるのが面倒で、そのまま開いていることが多かった。トイレの窓は換気のため、というより当然のように開いていて、妙義山に夕陽が沈む光景を見ながらの放尿は、私の人生のなかでベストシーンである。先に書いた宍道湖の夕陽にも劣らない絶景であった。シャワーもないので、冬でも水道の水で寝癖をとる。濡れたまま朝錬に飛び出すと、髪の毛が一瞬にしてバリバリに凍ることもあった。

 <続く>